2011年3月11日。忘れられない記憶が刻まれた日。あれから10年経ちました。
それぞれがそれぞれの場所で祈りを捧げる日に。
ブログには何を綴っておこうか。あれもこれもと浮かんでくるものをどうまとめておいたらいいのか、と迷いながら・・・。
その日の情景は、今でもはっきりと覚えています。中学校は卒業式を終えた翌日のこと。放課後の職員室のテレビの前で「え?😰何???これは、映画じゃないよね?」と声にしながら、立ちすくんでいたこと。現実に起こっていることだとは、どうしても思えず、なんだか悪い夢でも見ているような、気持ち悪さを感じながら、テレビの前にただ立っていた。
ゾクっとするあの感覚は、忘れようもありません。
翌日、廊下に張り出した新聞記事。当時担任していたクラスの生徒たちは、じっと見入って「まさこ!何かできることないの?」と。(担任をまさこ!と呼ぶ生徒たちでした)
この震災が「東日本大震災」と呼ばれるようになるまで、時間がかかったのと同様、想像を絶する被災地の全貌が判明するのにもかなりの時間がかかりました。当然、生徒たちが何が出来るのか?と問うて何が出来るのか、何が必要とされるのかなど、わかるはずもなく、行動に移すまでには何日もかかりました。
被災地の教育現場の状況もつかめてはおらず、ましてや、パニックに陥っている現地の教育委員会に連絡などしても迷惑なだけだということは分かっていました。だけど、津波に全てを流されたことを思えば、いつか落ち着いたときに文房具はきっと必要になる!と、それぞれがまだ使っていない文房具を持ち寄り、菓子箱一つ分集まっていました。
何かせずにはいられない、そんな気持ちは大人も子どもも同じでした。
あれから10年。新聞、テレビの報道は、復興はまだまだ道半ばなのだと訴えています。なぜ???10年も経つというのに。
自分の経験を持ってしても、被災地のリアルは、そこに行くことでしか分からないと思っています。
震災から2年経った秋。仙台を訪れる機会を得て、被災地を巡りました。ある小学校では、教務主任の先生から当時のお話をお聞きすることができましたし、今はもう取り壊されてしまった閖上中学校にも行きました。地震発生の時間で止まったままの校舎の時計。津波の被害に遭った12人の生徒の名前が刻まれた碑。一人ひとりの名前を撫でて声をかけてきました。「やりたいことがいっぱいあったでしょうね」「生きていたかったでしょうね」と。
被災したときのままの姿で放置されている家々。津波に根こそぎ流されて、さら地となった住宅地など、2年経ってなお被災地そのままの姿を残す画像をつなぎ、学年集会で報告させてもらいました。冷たい体育館の床に座って話を聞く生徒たちに、「寒いでしょう?冷たいね。」「でも、あなたたちは、このあと温かい教室に戻っていける。家に帰れば、いつもの生活ができるね。」
「それらが全て奪われることを想像してみてね!」と。
イメージする力。それが復興支援の一番の原動力だと思うのです。
4年が過ぎた夏休みには、福島に行くことができました。
福島では、O先生という高校の先生が案内役を引き受けてくださって、いろんなところに連れて行ってくれました。信号だけが息づく全く人気のないゴーストタウンと化した浜通り地区、津波にがらんどうとなって、泥を被った卒業証書の筒が放置されたままの小学校、除染作業で積み上げられた黒いフレコンバックの山、帰還困難地域の民家への侵入を防ぐ鉄格子、警備員が立つ東電福島原発事故近く侵入禁止地域・・・どれも、今も鮮明に焼きついている光景です。
ここに、書き尽くせないたくさんのものを見て、知らなかった事実を聞かされて、深く深く考えさせられて、帰ってきました。
「真実はなぜ隠されなければならないのか?」という疑問を胸に。
今度は、全校道徳の時間に報告させてもらいましたが、生徒たち以上に衝撃を受けていたのは、一緒に報告を聞いてくださった先生たちでした。
「私も福島に行かなければ!」と声をかけてくれた先生もいました。
案内役をしてくれたO先生は、それから2年後、亡くなられました。癌でした。
「なかったことにしないでほしい」「福島の現実を、自分の目で見たことを、一人でも多くの方に伝えてほしい!!」と訴えかけた彼女の思いは、今もまさこの胸の中にしっかり根を張っています。
私は、福島を、O先生を忘れない!!
老いてきたからか、最近よく思うことがあります。
自分が生きる「今」は、これからも続く長い長い歴史の流れの中で、どんな時代にあたるのか。ずっと先で、振り返り見る自分がいた場所は、どういうところで、自分はそこでどう生きていたのか。
願わくは、未来の自分が「今」の自分に「よくそう判断したね!」と言えるような生き方をしていたいものだと。
さあ、ならば、どう生きる?
それぞれの祈りの日に、まさこが思うこと。ダラダラと綴っておきました。