東京で、かのこさんと夫ののんさんから「山口県立美術館で『野口哲哉展』やってるね!」「行ってみたら!」「絶対いいよー!」と言われていました。
緊急事態宣言下の東京は美術館も博物館も公園までも、みんな閉鎖されていました。いつもどの美術館がどんな催し物をやってるかリサーチしては、出かけていたかのこさんたちです。
彼女たちからしたら、美術館が開館してて、しかも野口哲哉展なんだよ、行かないってことはないでしょう?って感じの強い強いお勧めを受けて、下関に戻ってきました。
軽い自粛の後、活動再開と同時に、いつ行くべきか?と考え、スケジュール帳とにらめっこしてました。なにせ13日までです。
紫陽花を植えた後だし、水やりに行かないとなぁ〜と思っていたのですが、ガーデナーゆみさんの「大丈夫よ!しっかり水やりしといたから」の言葉に勇気をもらって、出かけてきました。
野口哲哉って誰?
恥ずかしながら、その程度なんです。だけど、今、心から「ああ、行ってよかった」と思っています。
this is not a samurai
さまざまな人間(猫とか虎もいたな)がサムライ風に鎧兜を身につけるという異様さも、兜の下の人物の表情と、その極められたリアルさに惹きつけられて、そのうち忘れて見入ってしまっていました。
作品の一つひとつ、人物の周りをぐるりと回ってさまざまな角度から眺めてみましたが、うーん何というか、「作りもの」が持つ違和感がないというか・・・。
どの人物も、緻密で正確に作られた骨格が元となり、その上に肉がつけられ、皺が刻まれて、ちゃんと人格をもって生きて存在しているかのような見事な姿を見せていました。手の先、足の指の先まで妥協なく、繊細に作られていて、鎧兜の傷や汚れ、くたびれ具合を含め、まさにそのままのリアルさです。本物の人間が兜を被り鎧を纏ってそこに立っている!ただミニチュアサイズだというだけ。
人物の目線を追って、何を見てるのか?目線の先に立ってみようと考え、どの角度なら彼の目が私をとらえるのか?と背伸びしたり、しゃがんだり、右、左、斜めからながめてみたりと、いろいろに試みましたが、どの人物も目は何も映さず、意思を表現することなく、ただぼんやりしているのです。焦点はどこにもない。
鎧という固い殻を身にまとい、そこに佇んでいるだけ。心はどこにあるのかしら?と、探るけれど、つかめない。
今年2021年の作品(油絵)には、スマホを見つめる兜のサムライの空虚な表情が描かれていました。
意思をもたず油断したときに現れる、弛緩した表情。何を思うでもなく、誰の目も意識せずぼんやりしているときの張りのない顔。無意識のなかに潜む本音。
ぐるぐる回って、いろんな角度からその表情をじーっと見つめていると、ときどきふっと笑いが込み上げてきたり、丸めた背中の後ろ姿には哀しみを感じたり。
きっと他の人は、また違った感性でながめているんだろうなぁーと思いながらも、自分だけの世界で、それぞれの人物と向き合えているのを感じました。
不思議な世界観。
かつて読んだ和辻哲郎の「面とペルソナ」を思い浮かべたりしていました。
気になる作品の前では、いつまでも見入っていました。人を待たせる心配もしないで。
好きなだけ眺めて、たっぷり浸って過ごした豊かなひとりの時間。
多分、誰と一緒に行っても、その人その人で気になる作品は違うもの。進むペースは違うもの。自分のペースで、じっくり鑑賞したり、あるいはサッサと通過したりすることが気にならないのは、ひとりだから。
映画や演劇は誰かと見る方が楽しいけれど、美術館は、やっぱりひとりで行くのがいいなと思いました。
名残惜しいような気持ちで美術館を出る頃にはすでにお昼は過ぎていて😅
カッと照りつける日差し。暑い!
木陰の道を選びながら、美術館裏手の亀山公園を目指しました。マスクしたままで登る階段のきついこと!きついこと!
汗をかいて登りきった亀山には、だーれもいません。だだっ広い公園を独り占めです。
貸切の東屋で、持参したおにぎりを食べ、お茶を飲んでひと息。
野口哲哉の世界の余韻に浸りました。
かのこさんにも、感謝のLINEを送りました。「来てよかったわー」と。
とりあえず、その一言が全て。
本当は、美術館の後、おにぎりを食べたら散歩を予定していました。カフェに立ち寄るルートも考えていましたが、あまりの暑さに気持ちが折れて、そそくさ片付けて、サッサと帰ることにしました。
タフトに乗り込んで「外気温 39度」の表示に目が点😱
ヒェ〜🥵帰ろ、帰ろ〜!!